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単純に話がおもろいうえに抽象と具体を行き来してくれてわかりやすい神
ほめ過ぎです(笑)。でも、ありがとうございます!
神って安易に使いすぎ
厨二病の人が何かを本来の名前とは違った名前で呼びたがるのも、発達の段階として中学生になると抽象的な概念が理解できるようになる→言語に通底する構造に気づくことができ、応用できるようになるからなのかも。授業公開していただいていて嬉しいです。いつも貴重なお話ありがとうございます!
迷い込んだ一般人です。Eテレ「100分で名著」のディスタンクシオンの回から、You Tube検索で来ました。社会学について無学ですが、数年前に「寝ながら学べる構造主義」を読んで内田先生にはまりました。しかしまさに近年の言動から距離をとっていました。なぜ自分がついていけなくなったのか考えていたところ、この動画で膝を思いっきりうつ事ができました。ありがとうございます。自分の腑に落ちないところは何回も聞いています。
@@アーカイブ社会学講義こんな一般人にも、 丁寧なお返事いただけて素直に嬉しいです!内田先生の件は、私の中では心おけない仲間ができ、後に引けなくなった、ポジショントークに陥ったと勝手に解釈しております。学びに対しては真摯でいることが理想ではありますが…現実社会を生きているのもわかるので、そっとしておくしかないかなとたまにTwitter覗いています。一つ質問なのですが「ポスト構造主義」というものがいったい何なのか、わからないのですが…
@@アーカイブ社会学講義 うわっ!そうか!「ポストがつく時点で…」なるほど!いや、構造主義で結構完成やんと思ってたので、理解できないのは私の思慮が浅いからか?と考えこんでしまってました。(浅いのは事実ですが)また、「構造に縛られている、縛られていない」というのは、仏教の「色即是空 空即是色」に通じるものを感じます。うーんもうちょっと考えてみたいです。深く話せ、思考を鍛える事ができる友人がいる先生が羨ましい。絶対私はついていけないだろうけど。内田先生は大学で運営かに携わるようになり、だんだん政府批判に傾いていったとも推測しています。よきにせよまたその逆であれ、大きな権力に近づき過ぎると何かを失ってしまうのかなと少し怖くなります。良い読者かどうかはわかりませんが、内田先生の合気道の体験講習の時に、一生懸命指示どおりのつもりで身体を動かしていたら、背後から先生が「出来ているつもりかもしれませんが、できてませんよ」とボソッと言われた悔しさがあるのかもしれません(笑)あの時絶対ニヤッとしてたぞ先生!次の講義も楽しみにしています!このコロナの状況だからこそ巡りあえたと思うのは少々不謹慎ですよね。あと酷い装丁というのが気になってAmazonでポチッとしちゃいました(笑)
5:43ソシュール17:30フーコー33:05レヴィストロース42:00レヴィストロース🆚サルトル58:00まとめ
朝勉させていただきました。社会人学生でただいま卒論にむけて思考整理している最中です。ありがとうございました😊
話の流れが『現代思想の教科書』という私の受けた講義で扱った本と近くて理解の補助に大いに助かりました。ありがとうございます。
「世界を分類し、秩序化し、標準化する」という知の姿勢が権力性を帯びているという指摘はなるほどなぁと思いました。こう考えると、権力ということについて今までとは違った考え方ができるように感じました。例えば、権力というと階級の上の者が握って、下の者を制御するように感じていましたが、下の者も権力を持っているのではないかと感じます。それは会社でのメンバーの振る舞いから思ったことです。よく会社で、仕事のやり方を自分のやり方に合わせたがり、上の者や周りに強要してくる人がいます。そういう人は、会社組織の階層の下にいても、権力を握っているのかなと思ったりします。実際、上司が言うことを聞かせるのも難しいですし。標準化から外れる者に対する苦情を言うのも、大概、上司ではなく、同僚の方だと感じます。「あの人変です」みたいな感じで。権力は一人の人が持つというより、集団の空気のようなものが持っているという方が本当は近いのかも知れません。そもそも、分類や秩序化、標準化というのは、多くの人間が大好きなように思います。ものや人を見ると多くの場合、個性ではなく分類で物事を考えてしまいます。そう考えると、人間は基本的に権力好き、他人の権力は嫌がるけど、自分が権力を持つことは大好き、ということが言えるように思います。だから、社会の隅々にまで小さな権力構造がはびこるのですね。分類好きが権力好きになる。まぁ、そうは言っても、権力構造の蔓延を防ぐために、分類してものを考えるなとは言えないですしね。また、分類して、標準化した後に、必ず逸脱者が出ますが、そこではラベリングされ、ラベリングすることが権力を生むということにつながる。そうすると、逸脱者は、権力を生み出すまたは維持するためには必要ということになるのかなとも思ったりします。今、会社の私の組織は、メンバーのスキルも仕事上の興味・関心も多様なのですが、幸い、お客様からのニーズも多様なため、組織の多様性はむしろ強みになっています。メンバーには、それぞれの強みを伸ばして欲しい旨お願いしています。そういう組織なので、そんなに権力性が高い組織ではなく、快適に過ごせています。一方、お客様のニーズがもっと画一的だったら、こうも行かないので、組織内でもっと標準化を進めることになるのかなと想像したりします。そう考えると、権力を持つかどうかは、単に、その組織の上長の意思によるものというよりも、環境がそうさせているという側面も強いのではないかと思います。そのため、組織内のそういった空気の出来不出来を全てマネージャーのせいにする風潮がありますが、それは間違いで、置かれた環境に依存するので、たとえば、マネージャーを取り替えるだけでは組織内の問題は解決しないということになるような気がします。以上のように、つらつらと考えていると、「世界を分類し、秩序化し、標準化する」という言葉は、権力について様々なアイデアを与えてくれる、大変効果的なものだと感じました。
おっしゃるとおり、垂直的な権力よりも水平的な権力の方が現在では論じる価値のある問題だと思います。ただ日本の場合、複雑なのはタテとヨコが絡み合っていることです。たとえば、上からの権力が時短や緊急事態宣言を出せば、日本人はよくいうことを聞きますが、その理由が「世間体が悪いから」であったりします。つまり、上からの権力から逸脱している人間をヨコの権力によって取り締まるというような構造になっているんです。僕みたいなアナーキーな人間からすれば、「上からなんか言うてきてるけど、みんなで生きて行けるようにがんばろな!」みたいな感じで互いにかばい合ったりする方がよっぽどマトモだと思うんですが、互いにチクリあってましたからね(苦笑)。「多様性」という言葉を連呼する割には「多様性」を許さない社会だよなとよく思います。ある意味、他人のやってることなんて自分に害がなければどうでもいいわけですから、その適度な他人への無関心がむしろ「多様性」を担保するのだと思います。まえさんの組織があまり画一的でなくても大丈夫なのは、顧客のニーズが多様であるということに加えて、結構個人プレーだからではないでしょうか。チームで何かするとなると、一人がサボると自分が割を食うので相互監視が働きますが、きっと構造的にそうはなっていないことと、あと、ヨコを見て妬んだりしない人たちが多いことがきっと職場を快適なものにしているのでしょう。みんなそういう風になっていけばいいんですけどねぇ。
@@アーカイブ社会学講義 先生、お忙しい中、ありがとうございます。「上からの権力から逸脱している人間をヨコの権力によって取り締まる」⇒なるほどぉ、確かにそうですね。会社もまさにその状況ですね。特に、これは上手く行かないだろうという戦略を経営層がゴリ押しで進めようとするときには、職場にはそういう雰囲気が漂います。「「多様性」という言葉を連呼する割には「多様性」を許さない社会だよなとよく思います」 ⇒ まさにその通りですね。「多様性」を言えば格好良いと思って、他人にそれを強要してきます。多様性を主張する人は、「多様性に寛容な人」以外の人には不寛容です。本当に多様性が必要だと思っているのか疑問です。単に、私のような日本人の中年男性をいじめたいだけではないかとさえ思えてきます。大学の教員募集とかでも、「女性教員募集」って堂々と書いていますよね。あれが、「男性教員募集」だと、多様性がないだの、女性差別だのと騒がれると思うのですが。結構個人プレーだからではないでしょうか ⇒ まさにその通りです。個人商店の集まりとも言われています。基本的に各人がお客さんに相対してサービスを行います。少し大きな仕事の場合、数人でプロジェクトを進めることもありますが、それに参加するかどうかは個人で決めることができます。したい人が一人もいない仕事は、丁重にお断りします。ほぼやりたくない仕事はやらなくて良いので、その点でもストレスが低いのかも知れません。大きなチームで何かするとなると、やはり大変ですよね。前の職場がそうでした。リーダーは、日程調整とメンバーの不満を聞くことで追われていました。今回、コロナで、仕事がしやすくなったという声をよく聞きます。うちの従業員へのアンケートでも過去最高になっていました。顔を付き合わせないので、気を遣うことがないからですかね。
自分たちが民主主義がいいって思うのは民主主義のもとで育ったからだってとこすごいわかります。共学と女子校/男子校双方にどんなメリットがあるか、どちらの方が有効なのかについて考えた時、自分が共学出身だからどうしても共学がいいって結論になりがちだなって思ってた。色々勉強して、女子校/男子校もむしろいいんじゃないかって最近思うようになったけど。
コメント、ありがとうございます。そうですね。民主主義みたいな大きな話だけではなく、共学なんかの日常的なところでも、僕たちは自分の経験や生まれた場所の文化に影響を受けてるんですよね。そんな風に自分の日常に落とし込んで理解してもらえると、とてもやりがいがあります。どうもありがとうございました。
サルトルとカミュの論争でサルトルが勝った、というのがカミュ好きの私には腑に落ちません(苦笑)カミュについて、いつか掘り下げていただけると嬉しいです。いつも楽しくて分かりやすい講義を有り難うございます。興味はあるのに難し過ぎてなかなか入れないでいた世界に、やっと踏み込めた気持ちでいます。
コメント、ありがとうございます。僕もカミュ好きなので、勝ち負けについてはあんまり信用していません(笑)。そもそもカミュは論争の勝ち負けという基準自体から降りていたんじゃないか、という気がするので。カミュの言っていた暴力の否定とは、物理的暴力だけではなく、他人に対する価値観の押し付けを指しているように思います。そういう意味でもカミュは現代人が読むべき小説家(思想家)であるとも言えるかもしれませんね!カミュをちゃんと扱うためには僕自身、結構学びなおさないといけないところがあるので、「いつか」という感じななってしまいますが、これに懲りず今後も楽しんで頂ければ幸いです。
@@アーカイブ社会学講義 カミュが論争の勝ち負けから降りていた、というご指摘、非常に納得です。私自身もきちんと読み直し学び直しをしようと思います。今後とも是非動画のアップ、継続していただければ幸いです。
58:43 香港で失職し、大嫌いだった中共の大陸に転職しそうになり上海や深圳の生活を見に行ったら日本より懐が広いなかなか幸福な世界でぶったまげました。人間て本当に構造に囚われてるなあ。
人間全員が同じOS積んでるって表現めちゃくちゃわかりやすいですね。パンチライン。
こんにちは。2年ほど前に第17回までは視聴していましたが、就職活動などで離れておりました。私は社会学部の4年生で、今年の3月で卒業予定です。復習もかねて再度続きを見てみようと思い、授業の感想をコメントさせていただきます。構造主義的な考え方ができると、他者とのコミュニケーションも円滑に進むと感じました。例えば就職活動の面接で自分の大学の話をするときに「この言葉は私の大学でしか意味が通じないから説明が必要だな」と考え説明を追加したりするといった具合です。合わせて方言なども当てはまると感じます。私の地元、静岡県では洗濯物を取り込むことを「よせる」と言います。一般的に「よせる」と聞くと「(端に)よせる」という意味と解釈するのではないでしょうか。出身の違う友人や恋人に「雨が降ってきたから洗濯物を『よせて』おいて」と頼むと、服は部屋に取り込まれることはなく物干し竿の端によせられ、服が濡れていました。ある地域では伝わるものの、ほかの地域では通用しないということが上京した時のカルチャーショックでした。今私が行っている新入社員研修の電話対応の方法には「方言や若者言葉は避け、一般的な言葉や言い回しを使いましょう」と書かれています。この講義を受けた後だと「一般的」とは何だと感じます(笑)。今でいう若者言葉も年月が経てば若者言葉ではなくなるし、「一般的」になっているかもしれません。今いる社会は当たり前ではないというのはコロナ禍でもつくづく感じました。コロナ禍での常識の変化が社会ではいかにもマイナスなようにとらえられていますが、プラスのこともあったと思います。ありきたりですがコロナ禍からも学んでいく姿勢が重要だと感じます。系譜学的歴史観のように、あくまで一つの道を選んだ結果としての今に至っているわけなので、今が最良かも最悪かも分かりません。しかし、学ぶことによって道のりの選択肢が増えたり選ぶ際の判断基準が感情論だけにならなかったりと少なからず良い方向には向かうような気もします。最後に虹の見え方の話について、どこにも縛られずに生まれたままの純粋な状態で虹を見たらどのような感覚になるのかは気になりました(笑)。虹をきれいと感じるかもしれないし、ごちゃごちゃして気持ち悪いと感じるかもしれないし、まぶしいと感じるかもしれないし、、、ただ言語の学習過程でも社会集団に依存するはずなので、仮に頭の中で感じたとしてもそれを言語化するのが不可能になってしまうと思いますが(笑)。
構造主義、理解したい
嬉しい。
You Tube動画に出逢い、順に拝聴させていただいています。お話の軽やかさも好きですし、深いお話なのにとても解りやすくてありがたいです。これまでの人生で私が感じて考えてきたことに照らし合わせながら、深い理解と納得をしてとても感激しています❤心の癒しとケアの活動をするなかで、人の心の在り方について長年探求してきました。人々の悩みはなぜなくならないのか?と素朴に疑問を持ち、長年かけて探求してきたところ、その人の自身の悩みではなくて、社会構造の縛りや囚われや執着と恐れなどに支配された信念みたいな考え方にあると気づいたときには非常に大きな衝撃を覚えました。そのことに気づけた事によって人生は拡がり心が自由になりました。私は精神的、スピリチュアル的、人間的な領域からこの分野を観てきましたが、社会構造学という視点の存在にとても興味を抱くことができました。貴重な講演を無料公開してくださりありがとうございます❤先生のおしゃべりがとても軽快で楽しくて、何度も聞いて学ばせていただきたいと思います❤同じ大阪在住です。もしも、一般公開授業や公演などがあるのでしたら拝聴したいです😊配信に心より感謝しています💖
しっかり勉強します!
最近このチャンネルを発見し、大変興味深く拝聴しております。ありがとうございます。サルトルが晩年に抱えてしまった「実存は本質に先立つ」と「マルクス史観(あるいは決定論的歴史観)」の矛盾について個人的な仮説があります。それはサルトル自身が自らの存在を「歴史的に自明なもの」としないための行動だったのではないか、というものです。哲学的思想の盛衰はその時代を少なからず反映すると思いますが、哲学の歴史を考えていくと近代科学並びに近代的知性が登場したことで必然的に実存主義哲学が現れるように思え、そこで敢えて自己矛盾することで自身の哲学が持つ歴史的自明性から意識的に逃れようとしたのではないか、なんて思えたりします。(他者から規定されたくないがためにノーベル賞を辞退したぐらいの大の「規定嫌い」ですし)なんの資料にも基づいておらず、また関連する研究なども調べてない勝手な投稿ですが、宜しければ先生のご意見伺いたいです。
面白いコメント、ありがとうございます。勝手でもなんでも面白ければ勝ちです(笑)。僕もサルトルやら哲学やらにはそんなに造詣が深くないのですが、その説が本当だったら、サルトルはメチャクチャ頭いいですね。ただ、僕はなんとなく、彼はそこを矛盾として認識していなかったんじゃないかと思います。「実存は本質に先立つ」という言葉の本質は無神論ですよね。本質というのは人間が作ったもの、あるいは作っていくものであって神に決められたものではない、と。で、マルクス史観は実は神を廃した代わりに絶対的な基準としてマルクス主義的歴史法則を引き入れたものと理解できます。だから堀中さんはこれを「矛盾」と感じられたのだと思います。ここで問題は、神とマルクス主義を同列に考えるような発想があったかなかったかでしょう。あくまで推測ですが、この時代、「神に本質を決められたのではないから、人間は自由だ!」というのが思想だとすると、「人間社会にはこんな感じで発展していく法則がある!」というテーゼはあくまで科学として認識されていたんじゃないでしょうか。で、そこの矛盾に気付いていなかったから、レヴィ=ストロースにボコボコにやられちゃったんじゃないかと・・・。その意味で、この論争は科学も1つの信仰に過ぎないということを浮き彫りにしたとも言えますね。・・・とはいえ堀中さんの説も魅力的ですね。論破王サルトルが自ら敗北することで何かを表現しようとしたのだとすると、ちょっと好きになってしまいそうです(笑)。また哲学の専門の先生にでも聞いておきますね。面白い仮説をありがとうございました。
早速のご返信ありがとうございますこの時代の人々が如何に運命というものを必要としていたか、ひしひしと感じます(今も大して変わっていないかもしれませんが)また何か新しいことが分かればご教示頂きたいです、よろしくお願いします
そうなんだよなああ。喋るのも説明するのも上手くなりたいけど結局言葉にしたときに抜け落ちてしまう意味が無くせないからなあ
おっしゃるとおり、言葉を使うことは自分のナマの感覚を概念の中に閉じ込めることだと言えるでしょう。その意味で、言葉というのは「必要悪」のような存在なのかもしれませんね。
内田樹は世代が同じで嫌いではなく好きなタイプの思考者ですが、最も好きだったのはイラストにも衝撃だった😅橋本治でした。当時は、哲学的思考に憧れて志向した時代であり、東大が炎上し現役では京大が一番の受験時期で、已む無く二期校進んだ自分でした。我々の時代は、哲学系は、大学生であればかじって居なければバカにされる、と言う強迫感覚がありました。世間も、大学生をそれなりに認めてくれる時代でしたし自分もそれに応えようと思考した時代気分もあった様に感じます。 40代から、数字的ノルマ達成の世間の流れに合わなくなり後方部門の事務企画系の部署になり、哲学系思考の企画事務役割が適していたのか、また、紙ベースからデータベース変換時期だったことからも、哲学的思考である疑問力、がとても役に立って今でも相当な自信の基礎になったと思っています。そこらの一人の市井の老人ですが能楽とボクササイズをやりながら、学び続ける事と教養の幅を広げる事が人生における選択を都度行う上で、良い結果に繋がる場合が多い、という経験が後期高齢年代の今の時点ではそう思っています。哲学的疑問力は、いつも時代でも最強であり、流れ行く時代の欲望の中で、棹させて思い止まらせる自分の立つ位置を決断してくれるツールだと感じています。
哲学は、ギリシャ哲学から現代思想と言われる構造主義からポスト構造主義で60代まで自分なりに学んできましたが、今の自分の中の基本は、ヘーゲルとマルクスとドゥルーズ-ガタリが大きく占めていますが、自分の頭で考える、と云うことを示してくれた人は、池田晶子と永井均であり、ニーチェや西田幾多郎でしたし、兎に角、仏教系哲学等々も読みましたが、今は、関係学と云う社会環境から、東洋思想の仏教系哲学が日本人の歴史的環境や地政学的人的資質として合致しているし、西洋的思考とは相容れない歴史資質感覚があるのではと思っています。
ストラマーとカミュが似ているという新鮮な驚き
37:00 原著の仏語は分かりませんが、演技=role playingと言うことであれば、「本気でRPGのキャラクターとして他者と関係する」と言えば日本語でも概念が通じますね。
人類学や民俗学を勉強したことはありませんが、西洋からのみ見た視点だと感じます。
まさにその通りだと思います。というか、西洋人が「あれ?俺たちって西洋からしか見てなくね?」と気づきはじめた頃の学問ですよね(笑)
話が少しそれますが、昨年末にオンラインで美術史を勉強しましたが(講師は日本人)、アフリカや中東も美術があるはずなのにスルーでした。彼は現代美術が西洋美術から影響を受けてるから、そしてそれ以外は系統されてないからといってました。僕は単に西洋以外の情報が不足してたり見る気がないんだと思いますが。
象形文字から出来上がった言語は象徴なのか記号なのか14:10 造語症とかあるよなぁ
6:41 虹 32:52 素材 盛り付け 調理法
ソシュールの「色が先にあって言葉が後にできたわけではない」「言葉に当てはめて人は世界を見てる」っていうのが中々理解できないです。例えばペットの犬を飼った時にポチっていう名前をつけたとする。それは犬が先にあってポチという言葉が後で当てはめられてる。でもそのあとポチは大きくなったり、細胞も入れ替わったり、毛並みや性格も変わったりと成長するにつれて別人になっていくけど、それでも最初に決めた「ポチ」としてその犬を認識している。つまり最初は犬がいて、ポチという言葉を後から当てはめたんだけど、そのポチという言葉が後で一人歩きして、成長して別人になった犬にも、同じポチという言葉を当てはめてその犬を今までと同じポチとして認識してしまってるって感じですかね?その段階になると確かに言葉が先に来て、その言葉に当てはめて犬を認識するけど、一番最初は犬が先で言葉が後なんじゃないかな?
あとポチって名前を当てはめて認識してるとはいえ犬が成長してる事はちゃんとわかるのとおなじように、虹も2色しか見えない国の人は、2色しか見えない訳ではなく、寒色と暖色に分けて抽象化して2色と表現してるだけで、ちゃんと個々の色も認識できてるんじゃないかとおもうような?じゃないと色の言葉をまだ何も知らない子供は見えてる世界に色がないって事になる。それかそういう事じゃなくて記号を先に知ってしまうと、その記号で解釈しようとして、モノ自体を見ようともしなくなる事があるよねって事なのかな
コメント、ありがとうございます。良い質問ですね。ミュディさんが混乱したのはおそらく、実例として固有名詞を考えてしまったからだと思います。固有名詞については、ソシュール自身、別物として論じています。この点について考える際には2つ目のコメントでミュディさんがおっしゃっていることが重要になりますので、そっちから片づけていきましょう。まず、おっしゃっている通り、人間の目の物理的な機能として、色弱などでないかぎり、どんな文化の人でも赤ん坊でも、色が僕らと同じように目にうつっているのは確かです。ただ、重要なのはミュディさんの指摘しておられる以下のポイントです。「寒色と暖色に分けて抽象化して2色と表現してるだけで・・・」そう、この抽象化という作業こそが重要で、あらゆる一般名詞というのは抽象化によって生まれてきたものだと言えます。言い換えれば、「○○という性質を持ったものを全て××と呼ぼう」という約束こそが一般名詞を生んでいるんですね。その結果、2つめのコメントの後半に書いてあるように、「その記号で解釈しようとして、モノ自体を見ようともしなくなる」わけです。したがって、赤ん坊は色がない世界に生きているのではなく、正確には「色」という概念がない世界に生きていると言った方が正しいでしょう。そういう意味では、赤ん坊は言語に縛られている私たちよりも世界はもっと複雑、かつ豊かに見えているのかもしれません。以上を踏まえて1つめの固有名詞の話を考えてみましょう。「ポチ」という名前には先に述べた抽象化のプロセスがありません。「〇〇という性質をもったものを全てポチ」と呼ぼうという約束があるわけではなく、この個体そのものをポチと呼ぶわけです。だから見方によっては「これ」とか「あれ」に近く、そのものを指し示す意味しかないわけです。ここが固有名詞と一般名詞の違いです。それゆえに、ポチは先にその個体がいて、名前をつけているという説明になるわけです。ソシュールは固有名詞を「シニフィエなきシニフィアン」と呼んでいます。日本語にするとちょっとズレてしまうかもしれませんが、大まかに言うと、「概念なき記号」とか「空虚な記号」とでも表現できるかもしれません。抽象化されると概念が生まれますが、その概念という中身がない名詞ということですね。ただ、後半でミュディさんがおっしゃっているお話は面白くて、この空虚なところに段々意味が込められていく可能性についてはソシュールも示唆しています。ポチが賢い犬だとすると、しばらく姿が見えなくても「ポチやったら賢いから帰って来るやろ」とか言う風に、段々「ポチ」に中身が書き込まれていきますよね。人間だったら「名前がひとり歩きする」みたいな表現もあります。そういう意味では、名前の中にキャラみたいな意味が書き加えられて行って、周囲はそれにあてはめてその人物を理解するということも次第に起こってくるのかもしれませんね。どうでしょう?こんな感じで理解してもらえたでしょうか?固有名詞の話、あとだしみたいな感じになっちゃってすみません。ミュディさんの考えられたことはとても重要で、自分の周囲の具体的な現象にあてはめて考えたからこそ、その疑問が生まれてきたのだと思います。もしまた何か分からないことがあったら聞いてくださいね。ではでは。
@@アーカイブ社会学講義 ご丁寧な説明ありがとうございます!固有名詞と一般名詞を分けて考えるとすごくわかりやすく、理解が進みました。また先生もおっしゃられてるよう固有名詞の中にも意味が込められる事が確かにあるなと感じました。ポチの例でいうと本当はポチはウーパールーパーだったとしても多くの日本人は犬で柴犬でオスの動物を意味してると捉えてしまう気がします。(これはもはや固有名詞から一般名詞に移り変わってるだけ?)他の動画も見ていろいろ勉強させてもらいます
失礼します。プラグマティズムについての動画お願い出来ますか?
ありがとうございます。レヴィ・ストロースはLBGTの夫婦関係についてはどう触れているのでしょうか?私はよく知りませんが、男役と女役が状況によって変わるケースもあるみたいです。日本では法制化もされました。今は少数派、例外的存在であると認識されていますが、一定数がいる社会になると思います。夫婦関係が普遍的であるとする構造主義を否定する考え方が現代社会では生まれて来ていると思いました。
虹の話はちょっと、、目の色が違うと見える色は違います。色素の少ない青や緑の目は黒や茶色よりも光が入りすぎて、色を識別できる数は減ります。気候で性格は変わると思いますが、目の色だけでなく、食べ物に困ら無い気候の民俗はおおらかな性格な方が多い様で数字を数えても1、2、3、たくさん!!みたいな感じで色の識別もおおよそで水色も青と同じくくりで考えるような民族性になる部分もあるようですし、、
興味深いコメント、ありがとうございます。目の色で見える色が違うというのは知らなかったです。博学ですね!その上で、僕はあの例はやはり適切であろうと考えます。Sakamotoさんのご指摘のうち、前半部分と後半部分は少し性質の違うお話なので、わけてご説明しますね。まず、前半のご指摘は次のようにまとめられると思います。「身体的特徴によって見えているものが現実に違うのだから、見えたとおりに表現しているにすぎず、言語によって対象の認識の切り分けが違うことの例として不適切である。」まず端的な事実関係として、あくまでネット情報ですが、Sakamotoさんと逆のことを言っている人もいるみたいです。要は「青の方が見分ける能力が高い」派もいるようなんです。ただ、どっちが本当であるにしても、虹の色の数と矛盾が生まれます。仮にSakamotoさんのおっしゃるとおり、「青い目のほうが色を見分けにくい」とすれば、おそらく黒い瞳のはずのアジアの民族が2色で、青い目の方がもっと色の種類が多いのは不自然です。一方、それと逆の「青のほうが見分ける能力が高い」とすれば、アメリカやドイツに比べて日本の方が色の識別が多いという事実はおかしいです。ここから分かるのは、「生理的にどのように(そしてどの程度)見え方が違うにしても、身体的特徴によって言語的に区分される色の数が規定されているわけではない」ということです。後半部分はむしろ今回の動画のお話と同じ方向のことをおっしゃっているように思います。生活習慣や文化、民族性によって色の識別が規定されるというのは、まさに言語によって見えるものが違うということの根本原因です。言語は生活習慣や文化をひっくるめた民族性と言われるものの結晶ですし、その表れであるとも言えます。つまり、後半のご指摘はまさに今回の動画の「言語」という話をさらに掘り下げるようなお話だということです。ちょっと面白いのでここからは僕なりにSakamotoさんのお話を展開してみます。おっしゃるとおり、人は共同体の暮らす場所をはじめとする様々な環境に応じてものを認識し、言語を生み出します。最初はきっと自然発生的に「あれは〇〇と呼ぼう」みたいな「とりきめ」として言語は生まれてきのだと思います。ところが、やがてそれが確立していくと「とりきめ」だったことは忘れられ、どこかで転倒が起こるのだと思います。「あれは〇〇と呼ぼう」という「とりきめ」にすぎなかったはずが、「〇〇がある」という風に〇〇という単語の方が存在のように扱われ始め、それが人間の現実認識を縛っていくのです。これは、ジンメルの動画で話した「文化の悲劇」とも通じます。つまり、人は自分の生み出したものによって拘束されるということですね。Sakamotoさんのご指摘があるまではジンメルの話とこうした言語論をつなげて考えたことはなかったのですが、実は両者は違う角度や対象から同じことを言っていたのかもしれませんね。面白いご指摘、ありがとうございました。
お返事有難う御座います。全てを否定して居るわけでは御座いません。ただ、違和感を感じた部分が何となく気になり投稿いたしました。定義によって前後は違う視点の物とは思うのですがただ、思考も身体的特徴も同じ様に環境によって形成される物だと思っています。人類は移動し分布は大きく変わるのですが、目の色も環境に適応し変化したと思います。南の方はおおらかなな方が多く感じるたのも環境によって培われた物かと思いますもが複雑に交差して作り上げられる物だとしたら同等に並べて考えたのです。目の色の話ですが、色素が多い方が強い日差しの場所ではサングラスなどなく過ごされる方が多いのではないかと思います。自然光の環境では色を区別する能力は光が入りやすい色素薄い目の方より優れ識別できるのだと思っています。ただ、濃い色素でも暑すぎる環境の方は悪く言うと怠け癖、よく言えばおおらかで身体的特徴よりも思考の方が勝り虹の色もここまでが赤っぽいから赤で、ここからここまでは青でいいんじゃね、みたいな感じになってしまっている様に思います。どちらが先かはわかりませんが、より良い生活環境を求めた集団は向上心も強く良い環境で安定した暮らしは知的好奇心のつよく高め色彩なども たとえ色素の薄い目であろうと注意深く認識する様になっていったのではないでしょうか?私は中間の色の濃い茶の目の色でなお過ごしやすい環境が色彩認識が良いもではないかと思います。先程目が覚めて取り止めもない話書きもまさせて戴きましたが、内容事態否定する意図はない事ご理解ください。そして、とても興味深い内容楽しく拝聴させて戴きました。そして言語の形成の話、思うところ、また投稿させて戴きます。ありがとうございます♪
寮食がヤケアトになった世代なんだ…!(寮食あった時代に学生でした
おおお!!!先輩ですね。僕の頃はヤケアトで、今はなんかバカデカい建物がたっちゃいました。
@@アーカイブ社会学講義 どれもめちゃくちゃ面白いです。1つめの講義からゆっくり聞いています。パンキョーをちゃんとやらなかったことを悔いつつ、草引きのおともです。こんな素晴らしい講義集をアップロードしてくださってありがとうございます。
@@junkosan154cm ありがとうございます!パンキョー真面目にやらないのは京大の伝統ですもんね。僕も何一つ講義を憶えてないぐらいなんで、今も学生に授業真面目に受けろって言えずにいます(笑)。
わかりやすくて登録しようかとチャンネル見たらもう動画上げてないのね。もう語り尽くしたのかな?
戦争に勝ってたら民主主義じゃなかったかもしれないし、今でも至るところに天皇の写真があったかも
サピア=ウォーフの仮説
iPhoneが普及したこの時代にどうやったらこんなに音質落とせるんや
ps4のヘッドセットをpcに挿してしゃべるとこうなりますよ(苦笑)
@@アーカイブ社会学講義 わろた
レビストロス自身が考えていることもレビストロス自身のかんがえで未開となる、なんじゃこれ???
就活ゃ入社式に個性がない黒スーツを着用することの批判をネット上でよく目にします。最も大きな理由は安上がりなんですよ。
ユニクロの方が安いですよ。
誤配なんですね!笑
誤配というか偶然ですね。公開にしてたらみんなに届いたという(笑)。
ジョーストラマーに似てるwww
単純に話がおもろいうえに抽象と具体を行き来してくれてわかりやすい神
ほめ過ぎです(笑)。でも、ありがとうございます!
神って安易に使いすぎ
厨二病の人が何かを本来の名前とは違った名前で呼びたがるのも、発達の段階として中学生になると抽象的な概念が理解できるようになる→言語に通底する構造に気づくことができ、応用できるようになるからなのかも。
授業公開していただいていて嬉しいです。いつも貴重なお話ありがとうございます!
迷い込んだ一般人です。Eテレ「100分で名著」のディスタンクシオンの回から、You Tube検索で来ました。社会学について無学ですが、数年前に「寝ながら学べる構造主義」を読んで内田先生にはまりました。しかしまさに近年の言動から距離をとっていました。なぜ自分がついていけなくなったのか考えていたところ、この動画で膝を思いっきりうつ事ができました。
ありがとうございます。
自分の腑に落ちないところは何回も聞いています。
@@アーカイブ社会学講義こんな一般人にも、 丁寧なお返事いただけて素直に嬉しいです!
内田先生の件は、私の中では心おけない仲間ができ、後に引けなくなった、ポジショントークに陥ったと勝手に解釈しております。学びに対しては真摯でいることが理想ではありますが…現実社会を生きているのもわかるので、そっとしておくしかないかなとたまにTwitter覗いています。
一つ質問なのですが「ポスト構造主義」というものがいったい何なのか、わからないのですが…
@@アーカイブ社会学講義 うわっ!そうか!「ポストがつく時点で…」なるほど!いや、構造主義で結構完成やんと思ってたので、理解できないのは私の思慮が浅いからか?と考えこんでしまってました。(浅いのは事実ですが)
また、「構造に縛られている、縛られていない」というのは、仏教の「色即是空 空即是色」に通じるものを感じます。うーんもうちょっと考えてみたいです。深く話せ、思考を鍛える事ができる友人がいる先生が羨ましい。絶対私はついていけないだろうけど。
内田先生は大学で運営かに携わるようになり、だんだん政府批判に傾いていったとも推測しています。よきにせよまたその逆であれ、大きな権力に近づき過ぎると何かを失ってしまうのかなと少し怖くなります。
良い読者かどうかはわかりませんが、内田先生の合気道の体験講習の時に、一生懸命指示どおりのつもりで身体を動かしていたら、背後から先生が「出来ているつもりかもしれませんが、できてませんよ」とボソッと言われた悔しさがあるのかもしれません(笑)あの時絶対ニヤッとしてたぞ先生!
次の講義も楽しみにしています!このコロナの状況だからこそ巡りあえたと思うのは少々不謹慎ですよね。
あと酷い装丁というのが気になってAmazonでポチッとしちゃいました(笑)
5:43ソシュール
17:30フーコー
33:05レヴィストロース
42:00レヴィストロース🆚サルトル
58:00まとめ
朝勉させていただきました。社会人学生でただいま卒論にむけて思考整理している最中です。ありがとうございました😊
話の流れが『現代思想の教科書』という私の受けた講義で扱った本と近くて理解の補助に大いに助かりました。ありがとうございます。
「世界を分類し、秩序化し、標準化する」という知の姿勢が権力性を帯びているという指摘はなるほどなぁと思いました。
こう考えると、権力ということについて今までとは違った考え方ができるように感じました。
例えば、権力というと階級の上の者が握って、下の者を制御するように感じていましたが、下の者も権力を持っているのではないかと感じます。それは会社でのメンバーの振る舞いから思ったことです。よく会社で、仕事のやり方を自分のやり方に合わせたがり、上の者や周りに強要してくる人がいます。そういう人は、会社組織の階層の下にいても、権力を握っているのかなと思ったりします。実際、上司が言うことを聞かせるのも難しいですし。
標準化から外れる者に対する苦情を言うのも、大概、上司ではなく、同僚の方だと感じます。「あの人変です」みたいな感じで。権力は一人の人が持つというより、集団の空気のようなものが持っているという方が本当は近いのかも知れません。
そもそも、分類や秩序化、標準化というのは、多くの人間が大好きなように思います。ものや人を見ると多くの場合、個性ではなく分類で物事を考えてしまいます。そう考えると、人間は基本的に権力好き、他人の権力は嫌がるけど、自分が権力を持つことは大好き、ということが言えるように思います。だから、社会の隅々にまで小さな権力構造がはびこるのですね。分類好きが権力好きになる。まぁ、そうは言っても、権力構造の蔓延を防ぐために、分類してものを考えるなとは言えないですしね。
また、分類して、標準化した後に、必ず逸脱者が出ますが、そこではラベリングされ、ラベリングすることが権力を生むということにつながる。そうすると、逸脱者は、権力を生み出すまたは維持するためには必要ということになるのかなとも思ったりします。
今、会社の私の組織は、メンバーのスキルも仕事上の興味・関心も多様なのですが、幸い、お客様からのニーズも多様なため、組織の多様性はむしろ強みになっています。メンバーには、それぞれの強みを伸ばして欲しい旨お願いしています。そういう組織なので、そんなに権力性が高い組織ではなく、快適に過ごせています。一方、お客様のニーズがもっと画一的だったら、こうも行かないので、組織内でもっと標準化を進めることになるのかなと想像したりします。そう考えると、権力を持つかどうかは、単に、その組織の上長の意思によるものというよりも、環境がそうさせているという側面も強いのではないかと思います。そのため、組織内のそういった空気の出来不出来を全てマネージャーのせいにする風潮がありますが、それは間違いで、置かれた環境に依存するので、たとえば、マネージャーを取り替えるだけでは組織内の問題は解決しないということになるような気がします。
以上のように、つらつらと考えていると、「世界を分類し、秩序化し、標準化する」という言葉は、権力について様々なアイデアを与えてくれる、大変効果的なものだと感じました。
おっしゃるとおり、垂直的な権力よりも水平的な権力の方が現在では論じる価値のある問題だと思います。
ただ日本の場合、複雑なのはタテとヨコが絡み合っていることです。
たとえば、上からの権力が時短や緊急事態宣言を出せば、日本人はよくいうことを聞きますが、その理由が「世間体が悪いから」であったりします。
つまり、上からの権力から逸脱している人間をヨコの権力によって取り締まるというような構造になっているんです。
僕みたいなアナーキーな人間からすれば、「上からなんか言うてきてるけど、みんなで生きて行けるようにがんばろな!」みたいな感じで互いにかばい合ったりする方がよっぽどマトモだと思うんですが、互いにチクリあってましたからね(苦笑)。
「多様性」という言葉を連呼する割には「多様性」を許さない社会だよなとよく思います。
ある意味、他人のやってることなんて自分に害がなければどうでもいいわけですから、その適度な他人への無関心がむしろ「多様性」を担保するのだと思います。
まえさんの組織があまり画一的でなくても大丈夫なのは、顧客のニーズが多様であるということに加えて、結構個人プレーだからではないでしょうか。
チームで何かするとなると、一人がサボると自分が割を食うので相互監視が働きますが、きっと構造的にそうはなっていないことと、あと、ヨコを見て妬んだりしない人たちが多いことがきっと職場を快適なものにしているのでしょう。
みんなそういう風になっていけばいいんですけどねぇ。
@@アーカイブ社会学講義
先生、お忙しい中、ありがとうございます。
「上からの権力から逸脱している人間をヨコの権力によって取り締まる」⇒なるほどぉ、確かにそうですね。会社もまさにその状況ですね。特に、これは上手く行かないだろうという戦略を経営層がゴリ押しで進めようとするときには、職場にはそういう雰囲気が漂います。
「「多様性」という言葉を連呼する割には「多様性」を許さない社会だよなとよく思います」 ⇒ まさにその通りですね。「多様性」を言えば格好良いと思って、他人にそれを強要してきます。多様性を主張する人は、「多様性に寛容な人」以外の人には不寛容です。本当に多様性が必要だと思っているのか疑問です。単に、私のような日本人の中年男性をいじめたいだけではないかとさえ思えてきます。大学の教員募集とかでも、「女性教員募集」って堂々と書いていますよね。あれが、「男性教員募集」だと、多様性がないだの、女性差別だのと騒がれると思うのですが。
結構個人プレーだからではないでしょうか ⇒ まさにその通りです。個人商店の集まりとも言われています。基本的に各人がお客さんに相対してサービスを行います。少し大きな仕事の場合、数人でプロジェクトを進めることもありますが、それに参加するかどうかは個人で決めることができます。したい人が一人もいない仕事は、丁重にお断りします。ほぼやりたくない仕事はやらなくて良いので、その点でもストレスが低いのかも知れません。
大きなチームで何かするとなると、やはり大変ですよね。前の職場がそうでした。リーダーは、日程調整とメンバーの不満を聞くことで追われていました。
今回、コロナで、仕事がしやすくなったという声をよく聞きます。うちの従業員へのアンケートでも過去最高になっていました。顔を付き合わせないので、気を遣うことがないからですかね。
自分たちが民主主義がいいって思うのは民主主義のもとで育ったからだってとこすごいわかります。共学と女子校/男子校双方にどんなメリットがあるか、どちらの方が有効なのかについて考えた時、自分が共学出身だからどうしても共学がいいって結論になりがちだなって思ってた。色々勉強して、女子校/男子校もむしろいいんじゃないかって最近思うようになったけど。
コメント、ありがとうございます。
そうですね。民主主義みたいな大きな話だけではなく、共学なんかの日常的なところでも、僕たちは自分の経験や生まれた場所の文化に影響を受けてるんですよね。
そんな風に自分の日常に落とし込んで理解してもらえると、とてもやりがいがあります。
どうもありがとうございました。
サルトルとカミュの論争でサルトルが勝った、
というのがカミュ好きの私には腑に落ちません(苦笑)
カミュについて、いつか掘り下げていただけると嬉しいです。
いつも楽しくて分かりやすい講義を有り難うございます。
興味はあるのに難し過ぎてなかなか入れないでいた世界に、やっと踏み込めた気持ちでいます。
コメント、ありがとうございます。
僕もカミュ好きなので、勝ち負けについてはあんまり信用していません(笑)。
そもそもカミュは論争の勝ち負けという基準自体から降りていたんじゃないか、という気がするので。
カミュの言っていた暴力の否定とは、物理的暴力だけではなく、他人に対する価値観の押し付けを指しているように思います。
そういう意味でもカミュは現代人が読むべき小説家(思想家)であるとも言えるかもしれませんね!
カミュをちゃんと扱うためには僕自身、結構学びなおさないといけないところがあるので、「いつか」という感じななってしまいますが、これに懲りず今後も楽しんで頂ければ幸いです。
@@アーカイブ社会学講義
カミュが論争の勝ち負けから降りていた、
というご指摘、非常に納得です。
私自身もきちんと読み直し学び直しをしようと思います。
今後とも是非動画のアップ、
継続していただければ幸いです。
58:43 香港で失職し、大嫌いだった中共の大陸に転職しそうになり上海や深圳の生活を見に行ったら日本より懐が広いなかなか幸福な世界でぶったまげました。人間て本当に構造に囚われてるなあ。
人間全員が同じOS積んでるって表現めちゃくちゃわかりやすいですね。パンチライン。
こんにちは。2年ほど前に第17回までは視聴していましたが、就職活動などで離れておりました。私は社会学部の4年生で、今年の3月で卒業予定です。復習もかねて再度続きを見てみようと思い、授業の感想をコメントさせていただきます。
構造主義的な考え方ができると、他者とのコミュニケーションも円滑に進むと感じました。例えば就職活動の面接で自分の大学の話をするときに「この言葉は私の大学でしか意味が通じないから説明が必要だな」と考え説明を追加したりするといった具合です。合わせて方言なども当てはまると感じます。私の地元、静岡県では洗濯物を取り込むことを「よせる」と言います。一般的に「よせる」と聞くと「(端に)よせる」という意味と解釈するのではないでしょうか。出身の違う友人や恋人に「雨が降ってきたから洗濯物を『よせて』おいて」と頼むと、服は部屋に取り込まれることはなく物干し竿の端によせられ、服が濡れていました。ある地域では伝わるものの、ほかの地域では通用しないということが上京した時のカルチャーショックでした。
今私が行っている新入社員研修の電話対応の方法には「方言や若者言葉は避け、一般的な言葉や言い回しを使いましょう」と書かれています。この講義を受けた後だと「一般的」とは何だと感じます(笑)。今でいう若者言葉も年月が経てば若者言葉ではなくなるし、「一般的」になっているかもしれません。
今いる社会は当たり前ではないというのはコロナ禍でもつくづく感じました。コロナ禍での常識の変化が社会ではいかにもマイナスなようにとらえられていますが、プラスのこともあったと思います。ありきたりですがコロナ禍からも学んでいく姿勢が重要だと感じます。系譜学的歴史観のように、あくまで一つの道を選んだ結果としての今に至っているわけなので、今が最良かも最悪かも分かりません。しかし、学ぶことによって道のりの選択肢が増えたり選ぶ際の判断基準が感情論だけにならなかったりと少なからず良い方向には向かうような気もします。
最後に虹の見え方の話について、どこにも縛られずに生まれたままの純粋な状態で虹を見たらどのような感覚になるのかは気になりました(笑)。虹をきれいと感じるかもしれないし、ごちゃごちゃして気持ち悪いと感じるかもしれないし、まぶしいと感じるかもしれないし、、、
ただ言語の学習過程でも社会集団に依存するはずなので、仮に頭の中で感じたとしてもそれを言語化するのが不可能になってしまうと思いますが(笑)。
構造主義、理解したい
嬉しい。
You Tube動画に出逢い、順に拝聴させていただいています。
お話の軽やかさも好きですし、深いお話なのにとても解りやすくてありがたいです。
これまでの人生で私が感じて考えてきたことに照らし合わせながら、深い理解と納得をしてとても感激しています❤
心の癒しとケアの活動をするなかで、人の心の在り方について長年探求してきました。
人々の悩みはなぜなくならないのか?と素朴に疑問を持ち、長年かけて探求してきたところ、その人の自身の悩みではなくて、社会構造の縛りや囚われや執着と恐れなどに支配された信念みたいな考え方にあると気づいたときには非常に大きな衝撃を覚えました。
そのことに気づけた事によって人生は拡がり心が自由になりました。
私は精神的、スピリチュアル的、人間的な領域からこの分野を観てきましたが、社会構造学という視点の存在にとても興味を抱くことができました。
貴重な講演を無料公開してくださりありがとうございます❤
先生のおしゃべりがとても軽快で楽しくて、何度も聞いて学ばせていただきたいと思います❤
同じ大阪在住です。
もしも、一般公開授業や公演などがあるのでしたら拝聴したいです😊
配信に心より感謝しています💖
しっかり勉強します!
最近このチャンネルを発見し、大変興味深く拝聴しております。ありがとうございます。
サルトルが晩年に抱えてしまった「実存は本質に先立つ」と「マルクス史観(あるいは決定論的歴史観)」の矛盾について個人的な仮説があります。それはサルトル自身が自らの存在を「歴史的に自明なもの」としないための行動だったのではないか、というものです。
哲学的思想の盛衰はその時代を少なからず反映すると思いますが、哲学の歴史を考えていくと近代科学並びに近代的知性が登場したことで必然的に実存主義哲学が現れるように思え、そこで敢えて自己矛盾することで自身の哲学が持つ歴史的自明性から意識的に逃れようとしたのではないか、なんて思えたりします。(他者から規定されたくないがためにノーベル賞を辞退したぐらいの大の「規定嫌い」ですし)
なんの資料にも基づいておらず、また関連する研究なども調べてない勝手な投稿ですが、宜しければ先生のご意見伺いたいです。
面白いコメント、ありがとうございます。
勝手でもなんでも面白ければ勝ちです(笑)。
僕もサルトルやら哲学やらにはそんなに造詣が深くないのですが、その説が本当だったら、サルトルはメチャクチャ頭いいですね。
ただ、僕はなんとなく、彼はそこを矛盾として認識していなかったんじゃないかと思います。
「実存は本質に先立つ」という言葉の本質は無神論ですよね。
本質というのは人間が作ったもの、あるいは作っていくものであって神に決められたものではない、と。
で、マルクス史観は実は神を廃した代わりに絶対的な基準としてマルクス主義的歴史法則を引き入れたものと理解できます。
だから堀中さんはこれを「矛盾」と感じられたのだと思います。
ここで問題は、神とマルクス主義を同列に考えるような発想があったかなかったかでしょう。
あくまで推測ですが、この時代、
「神に本質を決められたのではないから、人間は自由だ!」というのが思想だとすると、
「人間社会にはこんな感じで発展していく法則がある!」というテーゼはあくまで科学として認識されていたんじゃないでしょうか。
で、そこの矛盾に気付いていなかったから、レヴィ=ストロースにボコボコにやられちゃったんじゃないかと・・・。
その意味で、この論争は科学も1つの信仰に過ぎないということを浮き彫りにしたとも言えますね。
・・・とはいえ堀中さんの説も魅力的ですね。
論破王サルトルが自ら敗北することで何かを表現しようとしたのだとすると、ちょっと好きになってしまいそうです(笑)。
また哲学の専門の先生にでも聞いておきますね。
面白い仮説をありがとうございました。
早速のご返信ありがとうございます
この時代の人々が如何に運命というものを必要としていたか、ひしひしと感じます(今も大して変わっていないかもしれませんが)
また何か新しいことが分かればご教示頂きたいです、よろしくお願いします
そうなんだよなああ。喋るのも説明するのも上手くなりたいけど結局言葉にしたときに抜け落ちてしまう意味が無くせないからなあ
おっしゃるとおり、言葉を使うことは自分のナマの感覚を概念の中に閉じ込めることだと言えるでしょう。
その意味で、言葉というのは「必要悪」のような存在なのかもしれませんね。
内田樹は世代が同じで嫌いではなく好きなタイプの思考者ですが、最も好きだったのはイラストにも衝撃だった😅橋本治でした。当時は、哲学的思考に憧れて志向した時代であり、東大が炎上し現役では京大が一番の受験時期で、已む無く二期校進んだ自分でした。我々の時代は、哲学系は、大学生であればかじって居なければバカにされる、と言う強迫感覚がありました。世間も、大学生をそれなりに認めてくれる時代でしたし自分もそれに応えようと思考した時代気分もあった様に感じます。
40代から、数字的ノルマ達成の世間の流れに合わなくなり後方部門の事務企画系の部署になり、哲学系思考の企画事務役割が適していたのか、また、紙ベースからデータベース変換時期だったことからも、哲学的思考である疑問力、がとても役に立って今でも相当な自信の基礎になったと思っています。そこらの一人の市井の老人ですが能楽とボクササイズをやりながら、学び続ける事と教養の幅を広げる事が人生における選択を都度行う上で、良い結果に繋がる場合が多い、という経験が後期高齢年代の今の時点ではそう思っています。哲学的疑問力は、いつも時代でも最強であり、流れ行く時代の欲望の中で、棹させて思い止まらせる自分の立つ位置を決断してくれるツールだと感じています。
哲学は、ギリシャ哲学から現代思想と言われる構造主義からポスト構造主義で60代まで自分なりに学んできましたが、今の自分の中の基本は、ヘーゲルとマルクスとドゥルーズ-ガタリが大きく占めていますが、自分の頭で考える、と云うことを示してくれた人は、池田晶子と永井均であり、ニーチェや西田幾多郎でしたし、兎に角、仏教系哲学等々も読みましたが、今は、関係学と云う社会環境から、東洋思想の仏教系哲学が日本人の歴史的環境や地政学的人的資質として合致しているし、西洋的思考とは相容れない歴史資質感覚があるのではと思っています。
ストラマーとカミュが似ているという新鮮な驚き
37:00 原著の仏語は分かりませんが、演技=role playingと言うことであれば、「本気でRPGのキャラクターとして他者と関係する」と言えば日本語でも概念が通じますね。
人類学や民俗学を勉強したことはありませんが、西洋からのみ見た視点だと感じます。
まさにその通りだと思います。
というか、西洋人が「あれ?俺たちって西洋からしか見てなくね?」と気づきはじめた頃の学問ですよね(笑)
話が少しそれますが、昨年末にオンラインで美術史を勉強しましたが(講師は日本人)、アフリカや中東も美術があるはずなのにスルーでした。彼は現代美術が西洋美術から影響を受けてるから、そしてそれ以外は系統されてないからといってました。僕は単に西洋以外の情報が不足してたり見る気がないんだと思いますが。
象形文字から出来上がった言語は象徴なのか記号なのか
14:10 造語症とかあるよなぁ
6:41 虹 32:52 素材 盛り付け 調理法
ソシュールの「色が先にあって言葉が後にできたわけではない」「言葉に当てはめて人は世界を見てる」っていうのが中々理解できないです。
例えばペットの犬を飼った時にポチっていう名前をつけたとする。それは犬が先にあってポチという言葉が後で当てはめられてる。でもそのあとポチは大きくなったり、細胞も入れ替わったり、毛並みや性格も変わったりと成長するにつれて別人になっていくけど、それでも最初に決めた「ポチ」としてその犬を認識している。つまり最初は犬がいて、ポチという言葉を後から当てはめたんだけど、そのポチという言葉が後で一人歩きして、成長して別人になった犬にも、同じポチという言葉を当てはめてその犬を今までと同じポチとして認識してしまってるって感じですかね?その段階になると確かに言葉が先に来て、その言葉に当てはめて犬を認識するけど、一番最初は犬が先で言葉が後なんじゃないかな?
あとポチって名前を当てはめて認識してるとはいえ犬が成長してる事はちゃんとわかるのとおなじように、虹も2色しか見えない国の人は、2色しか見えない訳ではなく、寒色と暖色に分けて抽象化して2色と表現してるだけで、ちゃんと個々の色も認識できてるんじゃないかとおもうような?じゃないと色の言葉をまだ何も知らない子供は見えてる世界に色がないって事になる。それかそういう事じゃなくて記号を先に知ってしまうと、その記号で解釈しようとして、モノ自体を見ようともしなくなる事があるよねって事なのかな
コメント、ありがとうございます。
良い質問ですね。
ミュディさんが混乱したのはおそらく、実例として固有名詞を考えてしまったからだと思います。
固有名詞については、ソシュール自身、別物として論じています。
この点について考える際には2つ目のコメントでミュディさんがおっしゃっていることが重要になりますので、そっちから片づけていきましょう。
まず、おっしゃっている通り、人間の目の物理的な機能として、色弱などでないかぎり、どんな文化の人でも赤ん坊でも、色が僕らと同じように目にうつっているのは確かです。
ただ、重要なのはミュディさんの指摘しておられる以下のポイントです。
「寒色と暖色に分けて抽象化して2色と表現してるだけで・・・」
そう、この抽象化という作業こそが重要で、あらゆる一般名詞というのは抽象化によって生まれてきたものだと言えます。
言い換えれば、「○○という性質を持ったものを全て××と呼ぼう」という約束こそが一般名詞を生んでいるんですね。
その結果、2つめのコメントの後半に書いてあるように、「その記号で解釈しようとして、モノ自体を見ようともしなくなる」わけです。
したがって、赤ん坊は色がない世界に生きているのではなく、正確には「色」という概念がない世界に生きていると言った方が正しいでしょう。
そういう意味では、赤ん坊は言語に縛られている私たちよりも世界はもっと複雑、かつ豊かに見えているのかもしれません。
以上を踏まえて1つめの固有名詞の話を考えてみましょう。
「ポチ」という名前には先に述べた抽象化のプロセスがありません。
「〇〇という性質をもったものを全てポチ」と呼ぼうという約束があるわけではなく、この個体そのものをポチと呼ぶわけです。
だから見方によっては「これ」とか「あれ」に近く、そのものを指し示す意味しかないわけです。
ここが固有名詞と一般名詞の違いです。
それゆえに、ポチは先にその個体がいて、名前をつけているという説明になるわけです。
ソシュールは固有名詞を「シニフィエなきシニフィアン」と呼んでいます。
日本語にするとちょっとズレてしまうかもしれませんが、大まかに言うと、「概念なき記号」とか「空虚な記号」とでも表現できるかもしれません。
抽象化されると概念が生まれますが、その概念という中身がない名詞ということですね。
ただ、後半でミュディさんがおっしゃっているお話は面白くて、この空虚なところに段々意味が込められていく可能性についてはソシュールも示唆しています。
ポチが賢い犬だとすると、しばらく姿が見えなくても「ポチやったら賢いから帰って来るやろ」とか言う風に、段々「ポチ」に中身が書き込まれていきますよね。
人間だったら「名前がひとり歩きする」みたいな表現もあります。
そういう意味では、名前の中にキャラみたいな意味が書き加えられて行って、周囲はそれにあてはめてその人物を理解するということも次第に起こってくるのかもしれませんね。
どうでしょう?こんな感じで理解してもらえたでしょうか?
固有名詞の話、あとだしみたいな感じになっちゃってすみません。
ミュディさんの考えられたことはとても重要で、自分の周囲の具体的な現象にあてはめて考えたからこそ、その疑問が生まれてきたのだと思います。
もしまた何か分からないことがあったら聞いてくださいね。
ではでは。
@@アーカイブ社会学講義 ご丁寧な説明ありがとうございます!固有名詞と一般名詞を分けて考えるとすごくわかりやすく、理解が進みました。また先生もおっしゃられてるよう固有名詞の中にも意味が込められる事が確かにあるなと感じました。ポチの例でいうと本当はポチはウーパールーパーだったとしても多くの日本人は犬で柴犬でオスの動物を意味してると捉えてしまう気がします。(これはもはや固有名詞から一般名詞に移り変わってるだけ?)他の動画も見ていろいろ勉強させてもらいます
失礼します。プラグマティズムについての動画お願い出来ますか?
ありがとうございます。
レヴィ・ストロースはLBGTの夫婦関係についてはどう触れているのでしょうか?
私はよく知りませんが、男役と女役が状況によって変わるケースもあるみたいです。
日本では法制化もされました。今は少数派、例外的存在であると認識されていますが、一定数がいる社会になると思います。
夫婦関係が普遍的であるとする
構造主義を否定する考え方が現代社会では生まれて来ていると思いました。
虹の話はちょっと、、目の色が違うと見える色は違います。色素の少ない青や緑の目は黒や茶色よりも光が入りすぎて、色を識別できる数は減ります。
気候で性格は変わると思いますが、目の色だけでなく、食べ物に困ら無い気候の民俗はおおらかな性格な方が多い様で数字を数えても1、2、3、たくさん!!みたいな感じで色の識別もおおよそで水色も青と同じくくりで考えるような民族性になる部分もあるようですし、、
興味深いコメント、ありがとうございます。
目の色で見える色が違うというのは知らなかったです。
博学ですね!
その上で、僕はあの例はやはり適切であろうと考えます。
Sakamotoさんのご指摘のうち、前半部分と後半部分は少し性質の違うお話なので、わけてご説明しますね。
まず、前半のご指摘は次のようにまとめられると思います。
「身体的特徴によって見えているものが現実に違うのだから、見えたとおりに表現しているにすぎず、言語によって対象の認識の切り分けが違うことの例として不適切である。」
まず端的な事実関係として、あくまでネット情報ですが、Sakamotoさんと逆のことを言っている人もいるみたいです。
要は「青の方が見分ける能力が高い」派もいるようなんです。
ただ、どっちが本当であるにしても、虹の色の数と矛盾が生まれます。
仮にSakamotoさんのおっしゃるとおり、「青い目のほうが色を見分けにくい」とすれば、
おそらく黒い瞳のはずのアジアの民族が2色で、青い目の方がもっと色の種類が多いのは不自然です。
一方、それと逆の「青のほうが見分ける能力が高い」とすれば、アメリカやドイツに比べて日本の方が色の識別が多いという事実はおかしいです。
ここから分かるのは、「生理的にどのように(そしてどの程度)見え方が違うにしても、身体的特徴によって言語的に区分される色の数が規定されているわけではない」ということです。
後半部分はむしろ今回の動画のお話と同じ方向のことをおっしゃっているように思います。
生活習慣や文化、民族性によって色の識別が規定されるというのは、まさに言語によって見えるものが違うということの根本原因です。
言語は生活習慣や文化をひっくるめた民族性と言われるものの結晶ですし、その表れであるとも言えます。
つまり、後半のご指摘はまさに今回の動画の「言語」という話をさらに掘り下げるようなお話だということです。
ちょっと面白いのでここからは僕なりにSakamotoさんのお話を展開してみます。
おっしゃるとおり、人は共同体の暮らす場所をはじめとする様々な環境に応じてものを認識し、言語を生み出します。
最初はきっと自然発生的に「あれは〇〇と呼ぼう」みたいな「とりきめ」として言語は生まれてきのだと思います。
ところが、やがてそれが確立していくと「とりきめ」だったことは忘れられ、どこかで転倒が起こるのだと思います。
「あれは〇〇と呼ぼう」という「とりきめ」にすぎなかったはずが、「〇〇がある」という風に〇〇という単語の方が存在のように扱われ始め、それが人間の現実認識を縛っていくのです。
これは、ジンメルの動画で話した「文化の悲劇」とも通じます。
つまり、人は自分の生み出したものによって拘束されるということですね。
Sakamotoさんのご指摘があるまではジンメルの話とこうした言語論をつなげて考えたことはなかったのですが、実は両者は違う角度や対象から同じことを言っていたのかもしれませんね。
面白いご指摘、ありがとうございました。
お返事有難う御座います。
全てを否定して居るわけでは御座いません。ただ、違和感を感じた部分が何となく気になり投稿いたしました。
定義によって前後は違う視点の物とは思うのですが
ただ、
思考も身体的特徴も同じ様に環境によって形成される物だと思っています。人類は移動し分布は大きく変わるのですが、目の色も環境に適応し変化したと思います。南の方はおお
らかなな方が多く感じるたのも環境によって培われた物かと思いますもが複雑に交差して作り上げられる物だとしたら同等に並べて考えたのです。目の色の話ですが、色素が多い方が強い日差しの場所ではサングラスなどなく過ごされる方が多いのではないかと思います。自然光の環境では色を区別する能力は光が入りやすい色素薄い目の方より優れ識別できるのだと思っています。ただ、濃い色素でも暑すぎる環境の方は悪く言うと怠け癖、よく言えばおおらかで身体的特徴よりも思考の方が勝り虹の色もここまでが赤っぽいから赤で、ここからここまでは青でいいんじゃね、みたいな感じになってしまっている様に思います。どちらが先かはわかりませんが、より良い生活環境を求めた集団は向上心も強く良い環境で安定した暮らしは知的好奇心のつよく高め色彩なども たとえ色素の薄い目であろうと注意深く認識する様になっていったのではないでしょうか?私は中間の色の濃い茶の目の色でなお過ごしやすい環境が色彩認識が良いもではないかと思います。先程目が覚めて取り止めもない話書きもまさせて戴きましたが、内容事態否定する意図はない事ご理解ください。そして、とても興味深い内容楽しく拝聴させて戴きました。
そして言語の形成の話、思うところ、また投稿させて戴きます。ありがとうございます♪
寮食がヤケアトになった世代なんだ…!(寮食あった時代に学生でした
おおお!!!
先輩ですね。
僕の頃はヤケアトで、今はなんかバカデカい建物がたっちゃいました。
@@アーカイブ社会学講義
どれもめちゃくちゃ面白いです。1つめの講義からゆっくり聞いています。パンキョーをちゃんとやらなかったことを悔いつつ、草引きのおともです。
こんな素晴らしい講義集をアップロードしてくださってありがとうございます。
@@junkosan154cm ありがとうございます!
パンキョー真面目にやらないのは京大の伝統ですもんね。
僕も何一つ講義を憶えてないぐらいなんで、今も学生に授業真面目に受けろって言えずにいます(笑)。
わかりやすくて登録しようかとチャンネル見たらもう動画上げてないのね。
もう語り尽くしたのかな?
戦争に勝ってたら民主主義じゃなかったかもしれないし、今でも至るところに天皇の写真があったかも
サピア=ウォーフの仮説
iPhoneが普及したこの時代にどうやったらこんなに音質落とせるんや
ps4のヘッドセットをpcに挿してしゃべるとこうなりますよ(苦笑)
@@アーカイブ社会学講義 わろた
レビストロス自身が考えていることもレビストロス自身のかんがえで未開となる、なんじゃこれ???
就活ゃ入社式に個性がない黒スーツを着用することの批判をネット上でよく目にします。最も大きな理由は安上がりなんですよ。
ユニクロの方が安いですよ。
誤配なんですね!笑
誤配というか偶然ですね。
公開にしてたらみんなに届いたという(笑)。
ジョーストラマーに似てるwww